演劇人・関口存男 関口存男 関口存男と演劇

【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<3>

本文は、関口純氏により執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)されたものです。

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【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>

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3.演出家の誕生 〜関口存男の任務〜

この踏路社という劇団、現在から見れば、築地小劇場〜俳優座と新劇の発展に偉大な足跡を残した俳優・演出家であるばかりか数々の名優を育成した青山杉作、若くして亡くなってしまったのが惜しまれるものの、日本で最初の巨匠映画監督などとも称される村田實、宝塚歌劇のレヴューを創ったとされ、「モン・パリ」の作・演出家としても著名な岸田辰彌、日本の演技芸術(注11)に、それはまるでプリズムの様に各方向へとそれぞれの仕方で影響=方向性を与え、日本に於ける西洋演劇の礎を築いた偉大なる人物たちを多数輩出した稀有な劇団である。

だとすれば、その中でドイツ語学者の関口存男が何をしていたのか、何を残したのか。普通に考えれば戯曲の翻訳でもしていたのだろうと考えるのが妥当である。だが、踏路社私演(注12)で関口が翻訳した作品は一つも無い。

定期会員を集める際の予定演目には関口存男訳という文字を見つけることが出来る。だが実際のところ、野上豊一郎訳、山本有三訳、森鴎外訳が使用されており、私演に関する限り、存男自身が舞台監督(注13)を担当する際にも、他人の翻訳を上演台本として使用している。それでは何をしていたのか。

「関口君を中心に演目を決めて研究するようになった。外国の演劇運動について知識の深い関口君から、われわれは大いに啓発される所があった。そして、そうしているうちに、新たに創られようとするわれわれの劇団は、ドイツの室内劇運動に範をとろうということに決まっていった」(青山杉作,1957)(注14)

青山の証言にもある様に、この時期の関口はラインハルトの室内劇場とカール・ハーゲマンの論考に熱心だった。

ハーゲマンに関しては、踏路社発足の前年、年末差し迫るクリスマス直前の12月22日、23日両日、黒田次雄名義で銀座のミカド倶楽部(注15)に於いて講演までしている。関口はここで山本有三氏ら文化人と出会うことになる。

ミカド倶楽部は踏路社に無償で稽古場を提供していたとされ、そのお礼にミカド倶楽部の会員向けにラビッシュ作「色気ばかりは・・・」(関口訳)等を上演した記録が残されている。プログラムでは踏路社訳となっているが、もちろん実際のところは関口訳である。

踏路社第一回私演の前年、東中野にある友人・松永津志馬のアトリエで上演する素人芝居の為に用意されたものだ。関口の孫・久美子の証言によれば、関口本人から「若い頃、東中野でカーテンを吊って芝居をしていた」(注16)と聞かされたと言うが、どうやらそれがこの素人芝居のことらしい。関口の役者デビューもこの時である。

そして、この素人芝居に村田實が演技指導に来たことから、関口が踏路社に参加する道筋が出来たという訳である。

関口の日記には「村田さんが来て、踏路社の計画や私の任務について種々話をした。」(関口,1916)(注17)とある。それでは、この「私の任務」とは何なのか。それが舞台監督、すなわち現在の「演出」だったのである。その辺りの事情は木村修吉郎の証言に詳しい。

「実をいうと、初め私はいささかの危惧を感じたのです。私達は駆け出しながら役者の端くれであるが、果たして素人芝居の関口君に演出をやって貰っていいか何うか危ぶんだのです。が、さて稽古が始まると、関口君は非常に熱心で、役者達に遠慮会釈なく、此処の動きはかう、此処の科白はかう、玄人である役者達を、素っ裸の素人が素っ裸の調子で稽古をつける。しかも芝居の動きが自由で、会話にもユーモアがあり、私は上手な演出だと思ひました。これは誰の目にもさう映った」(木村,1959)(注18)

踏路社第一回私演「画家とその弟子」を観劇した上山草人は「「うーむ、こりゃ真物(ほんもの)だ」と唸っていたと言う」(松本,1966)(注19)。

更に、同じく同公演を観劇していた島村抱月と松井須磨子に関するエピソードからは、その影響の程を窺い知ることが出来る。

「踏路社の功績としてこんな話が伝えられている。客席の扉のところで立って見ていた抱月は「画家とその弟子」に感心して「ここでもこういう芝居がやれるんだ」と須磨子に囁いているのを庄司亘がきいたという。芸術座の稽古場に作ったこの小劇場で抱月は間もなく「闇の力」や「死とその前後」などの研究劇をやって成功し、通俗劇団に転落したと非難されていた芸術座の名誉をいささか挽回出来たのは踏路社の啓発によるものであると言う」(松本,1966)(注20)

新劇自体は明治期から存在するが、踏路社の演劇を“現在の形での新劇”“現在の意味での演出家”の始まりと考える説は少なくない。そしてその演出家こそ、黒田次雄(注21)=関口存男その人であった。

「その前には何一つ世間に名を出すようなことをやったためしのない青二才が (中略) 築地小劇場から今日の新劇までに至る、いわゆる「新劇」のタイプをはっきりと打ち出してしまったのである。こんなことを言うと、坪内逍遥派の諸団体の人たちや、小山内薫の関係していた諸流に属する人たちは、何を生意気ぬかすか、新劇というのはおれたちがはじめたものだ、おまえたちはずっと後だった、とおっしゃるかも知れない。しかしそれは「新劇」という名称のことだと思う。現在やっている通りの新劇の芸風、せりふ、脚本のえらび方、理想、演出方(原文ママ)、その他とにかくインテリ層と深く結びついた行き方の芝居は、たしかに踏路社運動がそのはっきりとした皮切りで、その後例の築地小劇場を経て今日に及んだのである」(関口,1957)(注22)

関口自身もこの様に書き残している通り、まさにこれこそ踏路社が新劇の水脈とされる所以である。そうだとするならば、関口存男は“現在の形での新劇”、延いては日本の現代劇(西洋演劇)に於ける最初の本格的な演出家と言えなくもない。

踏路社の上演記録を以下に挙げる。

踏路社上演記録

第1回私演
大正6年(1917年)2月17日、18日 午後6時開演 牛込芸術倶楽部
長与善郎作「画家とその弟子」
舞台監督 黒田次雄(関口存男)


第2回私演
大正6年(1917年)5月5日、6日 午後7時開演 牛込芸術倶楽部
武者小路実篤作「悪夢」
舞台監督 木村修吉郎


第3回私演
大正6年(1917年)9月22日、23日 午後6時開演 牛込芸術倶楽部
フランク・ヴェデキント作「春の目ざめ」野上臼川訳
舞台監督 青山杉作(小屋の場面:関口存男) 演技監督 岸田辰弥


第4回私演
大正6年(1917年)12月4日 午後6時開演 牛込芸術倶楽部
ヘッベル作「マリア・マグダレーナ」吹田順助訳
舞台監督 青山杉作


第5回私演
大正7年(1918年)4月21日、22日 午後6時開演 牛込芸術倶楽部
ヘンリック・イプセン作「幽霊」森鴎外訳
舞台監督 関口存男」(田中,1964)(注23)

実のところ、踏路社はこの5回の公演をもってその活動の幕を閉じてしまった。(注24)

その理由には、青山杉作と村田實の芸術性の違い、村田實の恋愛沙汰、度々出演していた桂久子とその弟による踏路社乗っ取りの策略、メンバーの経済的理由等、様々な要因が考えられる。

それにしても、このたった5回の公演にも拘らず、どうして踏路社は“新劇の水脈”とされるのか。実際のところ、新劇史に於いて踏路社が語られるのは「画家とその弟子」「春のめざめ」「幽霊」の3作だけである。このうち2作品が関口の演出である。

また「春のめざめ」に関する記述は、ほぼ、関口による野上豊一郎への誤訳指摘である。そしてこの縁から野上に誘われ、関口は法政大学で教鞭を執る事になる。

だが本人としてはドイツ語教師を演劇活動を維持するためのバイトと考えていた節があり、実際、関口は法政の学生たち相手に「一生の仕事として芝居をやりたい、独逸語はそれまでの食いつなぎだ」(東郷,1959)(注25)と話している。

野上は能の研究者としても知られ、現在、野上記念法政大学能楽研究所としてその名が刻まれている。踏路社の定期会員にもなってくれたという。

踏路社第一回私演「画家とその弟子」については長田秀雄の劇評がその時の様子を伝えている。

「一座の謙虚な役者達が全く脚本に服従して、自分を人形とした結果が、却って統一ある立派な芸術になったのである。様々な欠点はあるけれども「真物」と云う感じを与へる芝居を久し振りに見たのは私の大きな喜びであった。この芝居の舞台監督は黒田次雄氏である。この脚本と、一座の俳優たちとに対する氏の深い理解が、芝居全体の後に、隠れた力となって、現れていた。どの幕でも、私は氏の気息を私の頬に感じた。これは失礼な申し分ではあるが、あまり物質的に恵まれていない一座をひきいて、かう云う芝居を作り上げた氏の努力は、見物した人々から感謝されねばならぬものである」(長田,1917)(注26)

後年、関口は長田の劇評についてこう回想している。

「長田氏の批評の中で、舞台監督の黒田次雄(即ち私)がひどくほめられた。褒められて文句を言ってはすまないが、これはちょっと見当ちがいだったのである。と云うのはビラにはっきり出ている通り、「演出者」は踏路社自身で、舞台監督というのは、別にいわゆる舞台監督ではなく、いわんや先生みたいに教えたわけでもなく、実を言うと「演技監督」と云うほどですらなかったのだ」(関口,1957)(注27)

実はこれが<謙遜>なのか<事実>なのかで事の次第は変わって来る。

いわばパズルにおけるバラバラのピースが一枚の絵を構成するか否かに関わる問題と言える。ところがこの後の文で関口はこう続ける。

「けれども、まちがってほめられるのは好いこともある。演技監督がおもしろくなって、その後イプセンの「幽霊」をやった時、やっと演技監督みたいなことができたのは、そのおかげだと思っている」(関口,1957)(注28)

いわば下の句がこの様に<肯定>的に描かれると、文の構造上、その対比に於いて当然、上の句は<否定>性を帯びて来る。すなわち<謙遜>ではなく、<事実>と読むことが出来る。

実際、関口の評伝を著した池内紀は「関口存男はエッセイのなかで打ち明けている」(池内,2010)(注29)と述べた後、これら関口によるこの文を引用している。些か曖昧な表現を採ってはいるものの<事実>に寄せて解釈していると見てよいだろう。

だがそうなると、先に見た青山杉作、木村修吉郎をはじめとする関口に関する証言の信憑性が怪しくなって来る。

筆者は以前、「関口存男と演劇」と言う冊子を執筆するにあたり関口の初演出作品について調べたことがある。その際にも関口本人によるこの文章には頭を悩ませられた。印刷物等、各種記録にその名が残されている「画家とその弟子」がそれなのか、もしくは関口が「やっと演技監督みたいなことができた」(関口,1957)(注30)と言う「幽霊」がそれなのか。そこで当時の関口の日記を調べることにしたところ、以下の様な長田の劇評に関する記述を見つけることが出来た。

「時事新報に長田秀雄氏の最後の劇評が載った。舞台監督としての私のことについて、一番最後に、勿体ない程好意を持った好い賛詞が書いてあった。しかし少なくとも私としては當りまえの事であった。」(関口,1917)(注31)

時事新報の文化欄に劇評が載った1917年2月27日の日記である。この文章に於いては舞台監督としての満足した様子が窺えるばかりか、長田の劇評を「當りまえ」として躊躇なく受け入れている。このことから、名前ばかりでなく、その実際に於いても関口の初演出作を「画家とその弟子」と結論づけるに至った。

この関口の日記といういわば最後のピースによって、青山杉作や木村修吉郎の証言が初めて妥当性を帯びて来るのである。そしてこれらのピースを組み合わせることで当時の踏路社の様子が浮かび上がって来ると言って良い。

すると、先に見た長田の劇評に対する関口の「見当ちがいだった」(関口,1957)(注32)はやはり<謙遜>だったのであろうか。実際そうかもしれない。だが、こうも考えられるのではないだろうか。「画家とその弟子」における成功も、「幽霊」における成功に比べればまだまだ素人の域を出ていなかったと。

「まず踏路社の「幽霊」の上演であるが、こんどの私の監督は、自分でもだいぶ進境が見えて頗る面白ろかった。思っていた理想がともかくも少々づつ役者の心に影響して行くといふのが面白い。アルヴィング夫人をやった女優の桂久子の如きは片っ端から私の與へた線通りに動いたし、舞台上の動きから、場面場面の変化、台詞の流れやうなど凡て私の頭の中にできていた通りになった。それに役者もみな絶対的に私の意見を受け入れ、殆んど私が芝居の成り立ちに一等重要な要素になっているのだと言ふことが終始感ぜられていた。(中略) プロンプター要らずの芝居で、踏路社としては初めての上出来であった。二日目の如きは、私は安心して見物席にいた。評判も非常によかった」(関口,1918)(注33)

「観客席からの拍手が非常にながく、また熱狂的だったことでも感じとられた。舞台を通って、楽屋に、観客がたくさんおしかけて来た。大ぜいの訪問者にかこまれ、われわれは「ああよく行った」という満足感をしみじみと味わうことができた」(青山,1957)(注34)

実際、「幽霊」に関しては、後の築地小劇場演出家・土方与志が青山杉作(牧師マンデルス役)の名演とともにその感動を伝えている。ちなみに関口は、若き土方が演出した柳原白蓮作「指鬘外道」(注35)に役者として出演していたこともある。この時、関口は「土方というのは村田を凌ぐ演出家になるぞ」(松本,1966)(注36)と予言していたという。そして土方は踏路社の熱心なファンでもあった。

「この劇団は私にとって忘れることの出来ないものだ。ここに集った芸術家達の演劇に対する良心的な態度、リアルな演技の追求、アンサンブルのとれた上演に対して、若い私は心から敬意を感じた」(土方,1957) (注37)

土方自身、特に「幽霊」には大きく影響を受けたと言う。後に自身が「幽霊」を演出する際、牧師マンデルス役に青山杉作をキャスティングしようとしたが、松竹から青山杉作ではネームバリューがないからという理由で、当時売れていた俳優を無理矢理押し付けられてしまう。そのことも一因となり、土方は日本の演劇界を去ってヨーロッパへ旅立ってしまう。

「(松竹は)「踏路社」の仕事にも、青山氏にも無智(原文まま)であり、あるいはそれらは問題にもしていなかったのであろう。私の再三、再四の要求にも拘らず、東儀鉄笛氏を無理矢理に押し付けて」(津上,2014) (注38)

既にこの時点で、芸術至上主義的傾向を持つ新劇の精神と商業主義との乖離が見られる。言うまでもなく関口にとっての演劇は前者の立場をとる。

後に、劇団新東京で上演された「フィガロの結婚」の翻訳に対し、その娯楽性から“作者(延いては芸術への)への冒涜”とも非難されたこともある関口だが、彼にとって“観客を楽しませる”ということと“商業主義”とは別物なのである。その辺りの価値観は後のドイツ語教本の執筆に於いても窺い知ることが出来る。

注釈

(注11)映画も含める為、このコンテクストでは敢えてこう呼びたい。
(注12)本公演と考えて良い。
(注13)現在の舞台監督ではなく、演出の意。
(注14)青山杉作「回想記」『青山杉作』1957 15〜16頁。
(注15)「萬世橋停車場の上」(関口『日記』1916年12月22日)にあったレストラン兼撞球場。
(注16)2018年6月15日、新宿区の関口邸。
(注17)関口存男『日記』1916年12月4日。
(注18)木村修吉郎「踏路社時代の関口存男君」『関口存男の生涯と業績』1959 138頁。
(注19)松本克平『日本新劇史 —新劇貧乏物語—』1966 530頁。
(注20)松本克平『日本新劇史 —新劇貧乏物語—』1966 533頁。
(注21)関口の変名。<黒田>は関口の母・品子の旧姓で、<次雄>は<存男>の当て字である。
(注22)関口存男「踏路社時代」『青山杉作』1957 115〜116頁。
(注23)田中栄三編著『明治大正新劇史資料』1964 167〜169頁。
(注24)その後、踏路社名義は映画に於いて、また青山杉作、村田實の舞台公演に於いて度々使用されているが、劇団としての公演は第5回私演「幽霊」が最後である。
(注25)東郷静男「先生—芝居—僕」『関口存男の生涯と業績』1959 148頁。
(注26)長田秀雄「文芸欄劇評」『時事新報』(1917年2月27日号) 松本克平『日本新劇史』530頁。
(注27)関口存男「踏路社時代」『青山杉作』1957 117頁。
(注28)関口存男「踏路社時代」『青山杉作』1957 117頁。
(注29)池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』2010 61頁。
(注30)関口存男「踏路社時代」『青山杉作』1957 117頁。
(注31)関口存男『日記』1917年2月27日。
(注32)関口存男「踏路社時代」『青山杉作』1957 117頁。
(注33)関口存男『日記』1918年5月2日。
(注34)青山杉作「回想記」『青山杉作』1957 23頁。
(注35)本来、村田實の演出だったが、映画のロケで忙しい村田に代わり演出助手の土方が演出を務めた。
(注36)松本克平『日本新劇史 —新劇貧乏物語—』1966 608頁。
(注37)土方与志「築地小劇場」『青山杉作』1957 123頁。
(注38)津上忠『評伝 演出家 土方与志』2014 65〜66頁。

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執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy

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