演劇人・関口存男 関口存男と演劇

【関口存男と演劇】踏路社運動 〜演出家の誕生と関口存男〜<はじめに/1〜2>

はじめに/<関口存男と演劇>について 関口純

本文は、数年前に執筆された論文『演劇創造と社会活動の互換性について〜演劇空間に世界は如何に書き込まれるのか〜』からの抜粋であり、そこから関口存男に関係した部分だけを取り出し、再編集(&若干の加筆)したものとなります。

極力、“関口存男の仕事“に直接関連しない私自身の思考に基づく箇所はできる限りカット(若干残っていますが)した為、本来、論理展開的には欠かすことのできない <新劇と宝塚歌劇の比較〜演劇とマスコミについて〜>や<演劇空間についての定義>、<演劇概論的部分>、<ミシェル・フーコーの原説分析を通した空間の定義>等の箇所についても敢えて大幅にカットすることにしました。それどころか肝心の<リサーチクエスチョン>すらカットしております。

※ 改行や太字、分割等に関しては、スマホでも読みやすくする為、編集部に一任しております。

これは、当ホームページをご覧の方全員が必ずしも学術的な興味からご覧になっている訳ではないであろうし、仮に学術研究をされている方であっても“演劇”や“社会科学”に関する研究者がご覧になっているとは限りません(多分、語学関係の方が多いのではないでしょうか?)ので、“論文”という形で掲載するよりも“読み物”として掲載されるべきかと判断した為です。

あくまでも<関口存男と演劇>に関する説明書としてお読み頂けると幸いです。

最初は一から書き下ろそうと考えておりましたが、スケジュールの関係があったこと、そして何より“webはスピードが命!”と思われますので、元々あった文章を再利用するかたちでの掲載となりました。

ただ、まあ、お読みいただければ曾祖父にとっての演劇が如何なる意図に基づいていたのか?については概ねご理解いただけると思いますので、下手に“易しく”書き下ろすよりも却ってこの方が良いのではないかと。

分量的に数回に分けての連載になるとは思いますが、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。

2022年9月17日
文化村の書斎にて
関口 純

1.名も無き若者たち

1917年2月23日〜24日、島村抱月と松井須磨子の愛の巣として名高い芸術倶楽部で、無名の若者たちの手により長与善郎の戯曲「画家とその弟子」(注1)が上演された。これが踏路社の誕生である。

無名の若者が歴史的大スター松井須磨子のお膝元、芸術倶楽部での旗揚げ公演といえば聞こえは良いが、この芸術倶楽部、実際のところは使用料が8円と安価な畳敷き(注2)の小劇場。公演中に部屋の外から割烹着姿の松井須磨子が覗いているという長閑な雰囲気だったという。

「青山さん村田実さんなどの芝居が、牛込の芸術倶楽部でフタをあけて25才位(注3)の関口さんは幕の外に出て開会の辞をのべた。芸術倶楽部といっても昔の寄席で、客はみんなタタミの上にすわって、あお向くようにして舞台を見るのだった。客は二十人位だった。」(能勢,1959)(注4)。

当時、上智大学とアテネ・フランセに在学中の関口存男は、生まれたばかりの長女・充子をおぶって稽古に通ったという。関口自ら充子に語った話が残されている。それによれば、松井須磨子は関口に「学生さん、学生さん」と声をかけ、赤ん坊の襁褓を取り替えてくれたという。

さて、それではこれが長閑な時代のアマチュア演劇の話に過ぎないのかといえば、そこに収まりきらないところに踏路社を語る意味があると言っていい。

またそのコンテクストに於いて、関口存男が<演劇>の世界に残した業績を検証することは“新劇に於ける<演出術>・<演技術>の水脈”を考える上でも重要な意味を含んでいると考えられる。これについては、木村修吉郎が「対談日本新劇史」の中で以下の様に発言している。

「この対談で関口存男の事に触れた個所が、雑誌の頁数で削られてしまったのですが、その当時この関口からはハーゲマンの演劇論が紹介され、私達はいろいろ大事な知恵を教え込まれました。この事は後年、青山(杉作)の演劇精神を形作る一つの大きな要素となったのではないかと思われます。第一回私演の長与善郎作『画家とその弟子』の演出は関口が演り、それが実に熱心でしかも玄人も及ばぬ名演出ぶりで、綿密な分析から全体的な整調、リズムのニュアンスといった要点をよく心得、踏路社がモットーとしていた『リアルに徹する自然法』の演劇を方向付けました。そういう諸点で、関口は日本新劇史の中から、どうしても洩らす事の出来ない存在で、それを記録に残して置くのは、もう今では私より外にはいそうもないので、僅かな余白を借りて、特にそれをここに記して置きたいと思います。」(木村,1961) (注5)

2.踏路社の結成

踏路社は、早稲田大学の学生演劇出身の青山杉作が、当時所属していた第三次新時代劇協会の解散に伴い、近代劇協会と舞台協会による合同公演に臨時雇いとして出演した際、舞台協会所属の木村修吉郎と意気投合したことに端を発する。

その後、青山が信州巡業の旅回り一座に参加した際に汽車の三等席で向かい合わせになった村田實(注6)を引き入れる形で結成された。そして彼ら三人のツテで出演俳優が集められることになり、村田が岸田辰彌、青山は夫人の万里(本名:鞠子)を、木村は舞台協会所属の三井光子を客演という形で集めて来た。

そこへ、更なる人材不足を補う為、村田によって連れて来られたのが関口存男である。この時期、踏路社への参加を打診する為、村田は大久保にあった関口の借家を連日訪れている。関口の日記には、その時の様子が綴られている。

「村田さんが来た。そして文学や劇の事に就て熱心に話して帰って行った。劇の事に関して私もすっかり興奮してしまひ、村田さんの真剣な態度に感服した。そして益々着実な態度で一生の仕事を始めようと心に誓ったのであった。」(関口,1916)(注7)

踏路社という名前は“演劇の本道を踏む”という意味である。「ほんとうは高踏社とつけようという案まで出た」(関口,1957) (注8)という。こうしたことからも、当時の新劇の状況に風穴を開けようとする若者たちの高い志と反体制的な心意気が感じられる。このことは上演の際、プログラムに掲げられた「踏路社運動第一言明表」からも窺い知ることが出来る。

「我々は此の瞬間までの日本演劇の、或は無自覚的、擬古的、遊戯的、或は無反省的、模倣的、欧化的、或いは一時的、山師的、功利的な態度に対して飽くまでも軽蔑する(中略)。我々は最初のイロハから舞台芸術を築き上げなくてはならない運命に到達している。我々のやうな量見を持った青年をこんな頼ない状態に陥入れた罪は専へに我々の先輩にある。(後略)」(踏路社運動第一言明表六章)(注9)

そしてこの後、後の日本演劇界にジレンマを生み出すことになる“芸術至上主義”がまさに指針として宣言されているのである。

「(前略)我々の立場を見、我々の量見を知って共に一喜一憂して呉れる日本人ができたら、我々の運動の意義が更に明らかになる。次に又我々のイロハにして我々らしい方向、我々らしい努力の微弱な結果をでも示す事が出来、芸術としての演劇の存在が明らかになったら、我々の運動には最も重大な意義が生ずる。我々の運動の前には永劫の彼方に通ずる路が開ける。従来の演劇を見て、演劇は遂に芸術に非ずといふ意見に到達した人達に向って云ふ『我々は起こった』と。努力の勇気を失ったものは我々と共に力の自覚へ帰へれ。娯楽の一語に舞台芸術を葬ったものは再び古き信仰にかへれ、而して俳優をもその真の意義に於て芸術家と呼ばしめよ。而して踏路社をもその真の意義に於て芸術の王国として輝かしめよ。」(踏路社運動第一言明表六章)(注10)

これらの言葉に宿る言霊は、必ずしも彼らの目指した<新劇>という枠に止まることなく後に様々な方向へ展開することになる。それは書いた彼らにすら想像し得なかっただろう。

だが間違いなく“全てはここにあった”といって良い。だが、何より重要なのは、こうした踏路社運動の精神が、その後どの様な紆余曲折を得て現在に影響しているのかという点であり、いわば“コンテクストを知る”ということである。

その為には、歴史の水脈を辿ることで、どの様に水が運ばれて来たのか、もしくはどの様に水が断たれてしまったのかといったことを知る必要があるのだ。

注釈

(注1)池内紀により『現代思想』(2004年1月号〜2004年12月号)に1年間連載後、2010年に単行本化された関口の評伝『ことばの哲学 関口存男のこと』の中で、著者池内は『第一回踏路社公演は倉田百三の小説を劇にした「出家とその弟子」』と述べているが、これは明らかな間違いであり、正しくは長与善郎作「画家とその弟子」である。この手の間違いは、明治大学を基盤とする大正演劇研究会編による『大正の演劇と都市』の中に収録されている演劇評論家藤田富士男作成の「大正演劇年譜」に於いても指摘出来る。
(注2)板張りにしての使用も可能な可動式だったという。
(注3)関口は1894年11月21日生まれなので、1917年4月現在、実際は22歳だった。
(注4)能勢克男「坂道の家」『関口存男の生涯と業績』 1959 154頁。
(注5)戸板康二(編)「木村修吉郎の巻」『対談日本新劇史』1961 95頁。
(注6)青山と村田はすでに第三次「新時代劇協会」で共演していた。
(注7)関口存男『日記』1916年12月3日。
(注8)関口存男「踏路社時代」『青山杉作』1957 113頁。
(注9)松本克平『日本新劇史 —新劇貧乏物語—』1966 527 頁。
(注10)松本克平『日本新劇史 —新劇貧乏物語—』1966 527頁。

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執筆:関口純
(c)Rrose Sélavy

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